責任を取ること|親の責任

私は自営業で自分の会社をマネジメントしている。会社と言っても小さな会社だけどね。そして、私の妻は、小学校で教師をしている。教師という仕事も子供を成長させるためのマネジメントが主な仕事内容だ。

マネジメントという仕事は、目標を達成するためにあるのは確かにそうなのだけど、もう一つとても大切な意義がある。それは、マネジメントが人を成長させるためにあるということだ。

マネジャーの仕事は責任を取り頭を下げること

私は自分の会社を経営していると上記で書いた。実際にマネジャーという仕事をしていると、お客様からメンバーのことでクレームをいただくことも普通にある。「〇〇さんが言っていることがよくわからないのですが、山口さんから一言言ってあげてくれませんか?」みたいな感じで、お客様とメンバーの間にトラブルの仲裁に入ることも日常茶飯事だ。

上記のようにクレームが入ったら、ひとまず状況を確認すると答えて、メンバーにヒアリングをする。ヒアリングを通して情報収集することで、お客様とメンバーの両者の意見を聴取して、実際にどのような現実が起きていたかを解像度高く理解することが重要だ。その後、お客様に報告をするけど、多くの場合にはメンバーの至らない点をメンバーの代わりに謝罪する。つまり頭を下げるということだ。その後、真摯なスタンスでお客様に状況説明をした後、メンバーの立場も踏まえて最適な解決策を提案するという流れが一般的な対応の流れだ。

メンバーに向けては「今回の件は〇〇の部分が私が至らなかったところなので申し訳なかった」という旨をまずは謝罪する。その上で、△△の部分はあなたが気を付けるべき部分なので気を付けてほしいと伝えて改善案を提案する形にする。これで両者の仲裁は完了だ。

そんな、お客様とメンバーの中間で、それぞれの意図をくみ取って、お互いの立場を整合することで、お互いに納得できる回答を提案するのが仕事だ。その間、両者に代わって頭を下げるので、私自身は2度頭を下げていることになるのだけれども、マネジャーの仕事とはそういうものだと思っているし、実際にそれでチームがまとまっているのでやり方は間違っていないと思っている。2者間の調整を図り、合意を形成するには誰かしらが何かしらの責任を取ることが必要だね。

親の仕事は子供の行動に責任を取り頭を下げること

上記の例では、私がマネジャーとして行動する時の一連の行動について書いたけど、それは親子関係における親にも当てはまると思っている。親とはつまり、会社でいうところの管理職として振舞う必要があると思うからだ。

具体的には、学校、習い事、少年団やクラブ活動など、様々な子供の活動を通して、何かしらのトラブルが起きた場合に、真っ先に頭を下げるのは親の責任だと思っている。もちろん、相手の出方次第なところはあるので、一概に謝罪すれば良いというわけでもないし、謝ってはいけないケースというのもあるとは思う。

学校の先生を始めとして、指導者は子供たちに良かれと思って指導をするけど、その指導の結果として子どもが先生の悪態をつく場合がある。それらの悪態をつく行動自体をその場で先生が単独で収めることができれば良いのだけれども、最近は収拾がつきにくい状況になってきていると感じている。悪循環に陥って、再起不能なまでに先生の心を痛めつけるケースが増えてきている。

その原因に目を馳せると、親が責任を取ることを知らない現状が目に映るようになってきている。

教師と子供のトラブルがあれば、教師が悪いと片付けることが多いように思う。親が責任を取らず、頭を下げないので、教師が悪いことになって、子供が責任を取らない。つまり子どもが他責で物事をとらえて考えを結論付けることになる。もちろん、親自身も他責で考えているので、これでは親も子も成長は難しい。逆に、教師は親や子供、同僚の教員に頭を下げることができない若手が増えてきていると思う。教員は教員で責任を取る術を知らない。教頭や校長などの管理職も責任をとろうとはしないし、誰も責任を取らないまま時間だけが経過していく現実が延々と続いていくだけだ。

それで子供はと言えば、学校の勉強においては学力に影響するし、習い事や部活や少年団などでは、各種専門実技などの技術力に影響することになり良いことはない。もちろん、誰も責任を取らない学校で責任を取るということを学ぶことは不可能に近い。家庭でも親が責任を取らないので責任を取ることは学べない。つまりは、責任を取る術を学べないということだ。

責任を取ることと引き換えに成長を手にする

上記のようなことが日常茶飯事に発生しているのだけれども、その原因は大人が責任を取る術を失ったからだと私は思う。この状況へは平成の空白の30年の時間をかけてゆっくりと進行してきていて、その結果として現状の責任を取らない若い大人による社会が出来上がりつつあると言えるのではないだろうか。

自分自身が社会人になりたての頃は、とてつもなくひどかったと思い返せるのだけれども、それと同じくらいひどい若手が最近は多い気がしている。それでも、昔は指導してくれる先輩がいたが、最近ではその指導も難しくなっている印象がある。世の中的に責任を取ることを教えられる人がいなくなったと思う。ある意味で自由なのは良いことだけど、責任を伴わない自由に未来はあるだろうか。このままでは、仕事がよりできない方向に向かって進んでいるように思える。

学校現場でも、教師と保護者間の信頼関係は地に落ちて、教師は保護者の支援を得られなくなった。その結果、教師の教育オペレーションがうまくいかなくなるケースが増えたと思う。妻の話を聞く限り、年々状況は悪化していている。教育現場はそのような状況だ。その結果、社会人として現場に配属されてくる若手にも変化があるし、即戦力になる若手が昔に比べてかなり減ったと思う。少し精神的な負荷をかけようものなら、パワハラだとか言われるリスクもあるし、自責で考えられる要素がなくなってしまっているので、それらをマネジメントする管理職は本当に骨が折れると思う。学校現場での教育も難航しているし、一般企業の職場では管理職からの教育が難しくなったがために、若者が自責で考えられて成長できる機会がほとんどなくなってしまっている。

そんな中で、自責で考えられる人は稀だ。親からも、学校の先生からも、会社の管理職からも責任を取る術を学ばずに成長してきた若者に未来はあるのか。そのような若者が、管理職になることは恐らくできないので、自分自身で成長をしていくしか方法はないのだけれども、その成長への筋道を自分自身で見出しながら前進していくことはできるだろうか。多くの人が通っていない「自責で考える」という成長への道を、これからの社会を作っていく若者が自ら発見できるだろうか。

責任が取れない大人が作る現代社会の行く末は

少なくとも、自分の子供はちゃんと自責で考えられるようにしてあげたい。私が経営をしている自社の社員も、自責で考えられるだけの教育の機会を与えてあげたい。そんなことを考えながら、今日はこの記事を書いた。

これはあくまでも私が個人的に考えていることでしかないけれども、職場で後輩の面倒を見ながら働く先輩社員の多くが感じている課題感だと思う。そして、現代における教育上の最大の課題だと思う。自分自身でこの課題に気が付くことができる人が少しでもいるのであれば、1人でも多く自責で考えられるだけの考え方を身に着けて大人になる人が増えることを、また大人になってからは自分の責任感の無さに気が付いて責任を取ることを学び将来を変えていける方を一人でも多く輩出できるような努力を共に重ねていける人の「和」を広げていくことはできないだろうか。

私はこの課題に対するソリューションを将来的には開発したいと考えているので、そのための研究に時間が割けるような体制づくりを進めていきたいと考えている。この課題に一緒に取り組もうと思える方が居れば、連絡をいただけると嬉しい。日本の未来のためと言えば、少し大きな言い方になるけれども、自分達の将来を共に協力して作っていける方がいれば気軽に連絡が欲しい。