私はITエンジニア未経験からITエンジニアになり、現在は大手のシステム会社に雇われて仕事をしています。かつての私はゲームが作りたい!と思ってプログラマーとして転職して紆余曲折ありながらも地道に成長してきました。
そんな私だからこそ、未経験からプログラマーになりたい方の気持ちを理解できると考えていますし、自分自身が一人前になるまでの間に歩んできたハードルは自分の経験として理解できているつもりです。
私なりに、未経験から一人前のITエンジニアとして自立するまでのプロセスを少し書いてみます。
会社員時代、黙々と資格の勉強をしたり、前のめりに頑張りすぎて体調を崩したり、独立の準備をしたり
正社員1社目:ITエンジニアとして走り出した2009年の春
最初に勤めた会社はCMSを作っているウェブ系のシステム会社でした。その当時はWordPressはまだ一般的ではなくて、各社が各々にCMSを開発していた時期でもあります。私はその会社の社長からPHPを勉強してほしいと言われて、その指示に従わずに基本情報技術者の勉強を始めてしまいました。2009年の4~5月にかけてはPHPを使って掲示板を作るという社内研修に対応をしましたが、たかが掲示板1つを作るのに1か月くらい時間をかけて作っていました。最初はHTMLのこともがわからなくて、タグのことを自分と一緒に入社した新人の方に聞きながら手を動かしていました。
プログラムを書く速度は全然上がりませんでしたが、毎日20時まで仕事をして、自宅に帰ってきたら21時前でした。その後ご飯と風呂を素早く済ませて、0時頃までの約2~3時間は、ベッドに寝転がって基本情報技術者の参考書を眺める毎日。お蔭様で2009年の10月3週目にある秋の試験で基本情報技術者には合格しました。そのころ平行してHTMLとCSSの勉強を始めました。今まで自分の意志で勉強なんてしたことがなかった私は、やればできるじゃんって自分自身で少し思いました。
その会社では社長のかばん持ちみたいな仕事をさせてもらいながら、大した仕事の成果も出すこともなく、給料泥棒を続けていましたが、黙々と勉強だけは進めていました。2010年には、ウェブデザイン技能士の3級を取得し、2011年にはウェブデザイン技能士の2級と合わせて応用情報技術者にも合格しました。私は着実にスキルアップの階段を上っていました。今思えばこの会社に勤めていた時が一番技術を学ぶことができて楽しかったかもしれません。
正社員2社目:2012年からは業務系システム会社経由で大手半導体生産工場での基本設計業務に従事
情報処理の勉強を始めるようになって、その勉強の中で企業経営というものに興味が湧いていたので、私はいつしかITコンサルタントになりたいと夢見るようになっていました。その夢を叶えるために、キャリアアップの階段を上っていくことを決意して、2011年いっぱいで務めていた会社を辞めて、2012年の1月からは三重県では中堅で300名程従業員が在籍している業務系のシステム会社に転職することができました。この時転職エージェントを始めて利用しました。
転職後は、大手企業の中で経験を積むために、客先常駐の部署を希望しました。その念願がかなって、四日市にある大手半導体生産工場での基本設計業務に従事することになりました。基本設計(UI)とはいっても、その当時の技術選定としては、プログラミング言語によるものではなく、ワークフロー風のツールを使った開発だったので、UIというものが存在せず、ビジネスロジックを考える仕事をしていました。当時の私にとって、論理的思考によりロジックを考える仕事がとても難しいものだという感覚もありましたし、その当時は中小企業診断士の資格を取るんだと躍起になって勉強し過ぎていたこともあって、半年後に体調を崩しました。
その当時の私の生活は平日は昼休みは食堂で済ませて、食堂から返ってきたから休み時間の間はデスクで診断士の資格の勉強。家に返ってきてからも寝るまでの時間はベッドの上で診断士の勉強。土日も喫茶店や飲食店にこもって診断士の勉強と、かなり根詰めて勉強に励んでいたのを覚えています。家庭を犠牲にして、すべてを勉強時間に注ぎ込んで生活をしていましたが、無理が祟って、体重も約5キロ以上ほど減らす結果となり、仕事自体も調子が良くなかったのもあって、体調を崩して入院する羽目となったのです。
人間無理をするものではないなと思いますが、当時の私にとって、目標にしていたアクセンチュアに入るまでの道程は非常に長い道のりで、そのくらいがんばらないと乗り越えられないと思っていたので、道半ばで折れることになってしまいました。その後、本社に戻されてからは総務に配属になりましたが、そこから約3年半の間、ゆっくり仕事をさせてもらえました。2年ほど経過したタイミングで、また勉強したくなってきたので、社労士の資格の勉強をするためにスクールに通って勉強に励んだ時期もありましたが、社労士の勉強内容が自分にとって面白いものではなかったので、やっぱりウェブ系のITがやりたいと改めて決意をして、四日市にある広告デザインの制作会社に転職を決めました。
正社員3社目:2016年2月からは四日市にある広告デザイン制作会社で再びプログラマーとして再開
プログラマーとして復帰できたのは、当時その会社の社長をしていた方のおかげです。何とか拾い上げてもらったので、ウェブ系の制作会社でのプログラマーとしての仕事に復帰することができました。HTMLやCSSについては、ウェブデザイン技能士の資格を持っていたので何となく書いたことはあったのですが、ウェブ制作会社でクライアントのウェブサイトを量産するポジションでは働いたことがなかったため、かなり苦労をしましたが、地道にサイト制作に携わらせてもらいました。
この会社ではWordPressに対する経験をも積ませてもらったので、その後独立してからの期間はWordPressを使ったサイト制作をメインに動き出すことができました。
独立して一歩ずつ地道に成長
2017年5月:副業のクラウドソーシングで稼げることを妻に証明
3社目に勤めながら、副業で平日の夜の時間と休みの日を使って、クラウドソーシングにチャレンジをしたところ、2017年の5月は20万円の売上を上げることができました。その成果を妻に報告したところ、やればできるかもと納得してもらえたので、その流れで独立することになりました。
この時私は営業活動など一切行ったこともなく、顧客はゼロの状態からスタートしました。タイミングよく声をかけてきたのは、独立後約2年間一緒に働くことになったデザイナーさんでした。私はこのデザイナーさんの事務所を間借りする形で居候エンジニアとして独立を果たしたのです。
2018年10月:月間労働時間400時間超で再度体調を崩す
デザイナーさんに声をかけてもらえて仕事があることはとても嬉しい事でした。もっと仕事が欲しいととクレクレ星人になっていた私に仕事をぽいぽい投げてくれていましたが、その単価は非常に安かったのを覚えています。1件当たり数万円から金額が大きくて20万円程度までの仕事では家計を支えることができず、徐々にそのデザイナーさんに頼らないようになっていきました。
高校時代の友人を頼り、紹介してもらった名古屋の大手広告代理店の仕事に、私ともう1名、一緒にこの先やっていこうぜ!と声をかけていた方と一緒にサイトの新規制作案件挑んでいたのが2018年10月のことです。この時、その方が2週間ほどで連絡がつかなくなり、どうにも立ち行かなくなったのですが、寝ずに休まずに死ぬ気で仕事を進めて、1か月で約400時間超の労働時間を計測しながら働いた結果、何とか納品まで持って行くことができましたが、そのまま体調を崩して失速しましたが、最終的に受注までしていた次の仕事に対応ができなかったため、迷惑料とお支払いする形で決着をつけました。
能力のない人間が大手の仕事なんて受けるからこうなるんだと理解しながらも、報酬が良かった大手の仕事がなくなって非常にやり切れない気持ちになりました。
2019年10月:中小学習塾のモノづくり補助金案件に失敗
2019年はモノづくり補助金の仕事で、中小学習塾さんから仕事を請けて案件に取り組んでいました。EDIX関西など、教育ITソリューションエキスポなどにも参加するということで、それらをお手伝いしたりしていました。この時開発した製品はプログラミング学習サイトでした。学習動画も作成したし、ウェブアプリケーションフレームワークを使ってそれらの動画を閲覧できたり、決済ができる学習サイトを作りました。
ただ、製品は完成して、何とか納品できるところまでは持って行きましたが、結構不足がある状態で納品してしまっていたので、その先に続かずに、色々とお客さんには迷惑をかけました。この時、新規事業を立ち上げるということの難しさを身をもって体感しました。製品開発もそうだけど、集客や営業も難しい。本当に心からそう思いました。
上記の仕事をしている時に採用を始めてやってきたのが初めての従業員である松本君でした。それが2019年7月のことです。この時から、松本君を育てるべく、サイトのコーディングの仕事からシステム開発の仕事まで、何から何まで仕事を工面して彼に投げ続けました。彼はそれらの仕事を対応しながら身をもって学習しながら成長していったのを横で見ていて感じました。
2020年6月:海外向け自動車ECサイトリニューアルの公開日直後の1週間
学習サイトの次は、自動車のECサイトに取り組んでいました。2019年の秋頃から取り組み始めて、9か月越しの2020年の6月に公開にこぎつけることができましたが、公開前後にコロナ時代が到来して、アクセスが急激に落ち込んだりしました。そもそも、アクセスの減少がコロナに由来するものなのか、サイトのリニューアルに由来するものがわからずに随分と苦労をしました。サイト公開直後の1週間はチーム全員で徹夜をしながら、アクセスアップに取り組んだのを覚えています。
この頃は、私自身は名古屋にある大手学習塾運営企業のSESに入っていたため、自分自身はそこまで工数を割いてプログラムを書くことができていませんでしたが、メンバーには仕事を投げ続けていました。2020年の秋頃からは、自動車整備工場向けの業務管理システムを開発しました。このシステムは外部設計こそ私が対応をしましたが、内部設計から実装に関しては松本君に全面的に依頼して作りました。技術的にもVue.jsを始めて取り入れた案件でした。
2021年1月:自動車販売店向け車両登録サイト開発をチームに全面的に任せて開発
自動車整備工場向けの業務管理システムの開発が終わってからは、6月に公開させてもらった自動車ECサイトを運営している企業向けの自動車販売店向けの車両登録サイトに着手していました。このシステムも外部設計は私が着手しましたが、内部設計から実装までは全面的に松本君や松井さんに依頼をして作る形になりました。このシステムでは初めてReactを取り入れて案件となりました。
2021年5月:保険代理店向け保険料・税金計算帳票システム開発もチームに全面的に任せて開発
自動車販売店向けの車両登録サイトの案件が終わってからは、地続きで対応していたのが、保険代理店向けの保険料などを計算できるツールの開発でした。この仕事は税理士法人さんから委託を受けて対応をした案件になります。この案件も、松本君や松井さん、その他のメンバーと協力して開発した案件となりました。技術的にはLaravelを使ったシステムでした。
コロナ禍の失注とメンバーとの別れを経てビジネスマッチング時代へ
2021年9月に始まったマッチングの利用
この仕事が終わってから約1年間が暗黒時代の幕開けです。夏場から依頼をいただける想定になっていた案件が遅延したり、失注したりしながら、時間が過ぎました。2021年の9月には営業の坂本さんと離別して、いよいよ営業を任せられる人もいなくなったのを皮切りに、流行っていると話を伺ったビジネスマッチングを始めた形です。
ここからの追い上げが結構すごかったと今でも思うし、営業をかなり頑張りました。2021年の10月~2022年の末までの受注額は2000万円程度を記録できて、何とか仕事不足の沼から抜け出せた状態になりました。
仕事を投げてくれる会社がなくなっていくまでの間も色々と紆余曲折ありましたが、仕事を投げてくれる営業会社の仕事に対して新人を投入してひどい成果物を納品し続けた結果がこの結末だと思います。今ではベテランだけでチームを組んで仕事をしているので、仕事ができないことが一切ありませんが、2019年から2021年の3年間は、かなり仕事の品質が安定せずに、お客様に迷惑をかけたのを覚えています。
2022年5月をもって松本君と離別
松本君は自社の記念すべき最初の従業員でした。正社員待遇から役員に待遇も上げて、報酬額も自分と遜色ない金額を渡していましたが、それだけでは彼の心をつなぎとめることができませんでした。2022年の3月に業績不振につき、給与額を引き下げたところ、それがトリガーとなって4月に入ったタイミングで退職を宣言し、5月末を持って退職となりました。
これまでの活動を振り返ってみると、私はマネジャーとして必死に働いた3年間でした。
2022年夏~秋:食品衛生管理プラットフォーム開発
松本君が退職するタイミングから始まったプロジェクトが食品衛生管理プラットフォームの開発です。この仕事はモノづくり補助金案件で、過去最大級の規模感になりました。メンバーも最大で7名程度アサインして対応に当たりました。Laravelを使った開発案件となりましたが、自分自身も開発の手を動かしながらプロジェクトを推進しました。
無事に9月頃に採択されて、そこから一気に開発を進めて、翌2月頃に納品へと進めることができました。後続の開発依頼もいくらかはいただいてはいるのですが、売上に繋がっていないということもあって、予算が割けない状態なので、恐らくは後続の開発は加速しないと思います。テストマーケティング的に言えば、ニーズがなかったと結論付けるのが適切な結果になっていると思われます。ユーザーの獲得が中々うまくいかずにプロジェクトも減速してしまったのが今現在の状況です。
2022年11月:製造業向け試作品管理システム開発支援に参画
上記のプロジェクトはメンバーに全面的に依頼しながら進めていましたが、私自身2022年11月からは、大手製造業向けの試作品管理システム開発の仕事に入っていました。外部設計フェーズから参画をして、今現在は結合テストに差し掛かるところです。
メンバーは松井さんと熊本さんの2名だけで、彼女ら2名を維持するだけなら、日々のマッチングの運用で何とか支えられるような営業力は維持できるようになっていました。私自身、営業にかなり精を出して取り組んできたけど、それも2023年5月末を持って終わりにします。
共に歩む方と共に成長していきたい
上記のような仕事に取り組んできた私ですが、最近は1名だけ若手の育成を行いたいと考えています。その方が自社をやめてしまったならば、また、1名だけ雇おうと考えています。
人を雇おうと考える意図は、若手を育てられる会社が年々減っていっていると感じるからです。私の元では、松本君と松井さんが一端に育ちました。松本君はもう巣立って行ってしまいましたが、松井さんは一人前になって、今現在自社を支えてくれています。
私自身も、100%の稼働率で案件に入ることを継続はしていきますが、その合間の時間を自社製品の開発や自分自身の技術の勉強などにも時間を割いていきますが、一緒にやっていこうと考えてくれる方に並走する形で何か力になれないだろうかと考えています。
もちろん技術・経験によっては、そんなに良いお給料をお渡しすることはできませんが、一歩ずつ着実に成長していきたい方と一緒に成長していけるなら、振り返ったときに、私は自分の会社をやっていて本当に良かったと思えると思います。
私も自社のメンバーもベテランが揃っているので、技術のことは手取り足取り教えることができると思います。不安がらずに、一歩を踏み出して連絡をください。本当に成長したいという気持ちをお持ちの方であれば、できる限りの対応でお応えしようと考えています。一緒に成長していける方からの連絡をお待ちしております。